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こんにちは、借金約500万円を抱えているアラサーの喪女です。
今日は『心配性も過ぎれば毒だよね』という、個人的な考えをお話させてください。
私の母親は、どちらかというと心配性に分類されるタイプです。自身の子どもである私や弟妹のことはもちろんですが、わざわざ母が心配するようなことではないことに心を配っていることすらあります。
過度に心配しすぎた結果、一人で気を急いて、時間に余裕を持つというよりは時間を持て余すこともしばしば。それなのに「時間がない」「忙しい」と、よく口にします。
だというのに、私が夜の22時にコンビニへと行こうとすると「危ないから運転していく」などと言う始末。私自身も免許を持っていて、なによりコンビニは車で5分の距離です。とはいえ、こういう時の母は何度「大丈夫」と言っても通じないので諦めて一緒に行くのですが……正直疲れます。
アラサーの女に対する態度ではないんですよね。私のこと、まだ幼児か何かと勘違いしているのでしょうか? と思いもしましたが、そうであれば金の無心などしません。ただただ心配性が過ぎるだけなのでしょう。
しかし、弟や妹が呑みに行って遅くなる分には何も言わないんですよね。彼等が実家にはいないこともあるでしょうが……実家にいたときも、眠らずに起きていたくらいで、ここまではなかったかもしれません。
私はあまり20歳以前の記憶がないのですが、思えば幼い頃よりこのようなことが多かったような気もします。
「アレがやりたい」と言えば「危ないよ」とか、「コレがやりたい」と言えば「どうせ続かないから辞めておきなさい」だとか。一見すると理解者のような発言ですが、大人になってじわじわとその毒が効いているのを感じます。
どうせ。
この一言が邪魔をして、やりたかったことに手を出す勇気は失われ、そしてやりたかったことすら失われていく。
そのことに気付いたのは、数年前のことです。今でこそ、精神的な疲労を伴いながらも、過去の「どうせ」の呪縛を振り解きながら、ゆっくりとではあるものの行動を起こせるようになりました。
けれど、始めは気付きたくなかったです。
優しさだと思っていた、いえ、今でも母にとっては優しさでしかないものが、実は自身にとっては毒だったのだという事実に。
それを受け入れられない自分がおかしいのかもしれないと、何度も考えました。実際に母に「冷たいね」と言われたことがあることもあって、尚更。
けれど、年齢を重ねて思います。
自分にとって『毒』だと感じるなら、それは正しく『毒』なのだと。自分の中の違和感を無視する必要はないのだと。
ただ、基本的に心配性の人は悪意があるわけではなく、むしろ本気で心配していて、自身が発する言葉が持つ毒に無自覚故に性質が悪いようや気がします。
なので、私は邪魔をされたくないものに関しては伝えないことにしました。「大丈夫なの?」「やめときなさい」と経験上言われることが目に見えているので。ブログをやっていることも、もちろん内緒にしています。
とはいえ、まだまだ罪悪感のようなものが付き纏うこともあります。こうした、甘やかな毒を完全に排出するには、私の場合、かなり時間が掛かりそうです。
それでも、少しずつ少しずつ進んで行けたらな、と思います。個人的には、こうして文字に表せただけでも、かなり大きな一歩ですし……きっと進める気がしています😊
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